こんにちは、RIOです。
今回は、イタリア屈指のオペラ王ヴェルディをご紹介いたします。
Giuseppe Verdi
ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)は、イタリア出身で、19世紀を代表するオペラ作曲家です。
家は音楽一家ではありませんでしたが、8歳のときに聞いたパイプオルガンに惹かれ、親から買い与えてもらったスピネットという小型のチェンバロを熱心に練習したそうです。
それからは音楽学校に通って、ピアノや作曲、指揮などの経験を積み、次第に注目されるようになりました。
さらなる研鑽のためにミラノに留学し、音楽院でソルフェージュを教えていたラヴィーニャや指揮者のマッシーニの後押しで、スカラ座の本番で指揮をしたりして、段々と音楽の依頼が来るようになりました。
その後は地元ブッセートに戻り、自分を最初に見出してくれたバレッツィの娘マルゲリータと結婚しました。
しばらくはブッセートで真面目に仕事をしていましたが、自らの音楽への探求から、再びミラノに戻ります。
ミラノに戻ってからは処女作「オベルト」がスカラ座で上演され成功し、次作を作っていましたが、ブッセートに残してきたマルゲリータが病死します。
妻の死にひどく落胆したいましたが、ふと出会った台本の「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」という言葉に励まされ、その台本から「ナブッコ」を作曲しました。
「ナブッコ」の成功を気に力を取り戻したヴェルディは、次々とオペラを作曲し大成功を収めていきました。
1847年、パリにて「オベルト」のソプラノ歌手であった(すでに引退)ジュゼッピーナと再開し同棲を始めます。
革命の影響で、ミラノ、パリを行き来した後、ジュゼッピーナを連れてブッセートに戻りました。
そのままブッセートにて「リゴレット」や「イル・トロヴァトーレ」を書き大成功。
そのままの勢いで、今でも有名な「椿姫」を書きましたが失敗。雪辱を晴らすためのリベンジでは成功を収めました。
その後もその土地での理解や情勢などを考えながら、次々とオペラを作曲し、ついには国民にも讃えられるような作曲家となりました。
ロシアでも上演されるようになった1860年頃、ドイツではワーグナーが活躍しており、ライバル視していました。
その後は尊敬していたロッシーニの死をはさみ、「アイーダ」「レクイエム」「オテロ」を書き上げました。
「オテロ」を書き終えたあたりで、本格的な引退を考え始めました。
最後は喜劇で締めようと「ファルスタッフ」を書き上げ、88歳で亡くなりました。
(長くなりました、、、笑)
曲もご紹介いたします。
オペラ「アイーダ」より「凱旋行進曲」
オペラ「椿姫」より「乾杯の歌」
レクイエムより「怒りの日」
ヴェルディとピアノの関係性
上で長々とご説明したとおり、とにかくオペラオペラオペラなので、ピアノとの関係性で言うとオペラアリアの伴奏やオーケストレーションする前の下書きのようなところになってきます。
が調べたところ、ヴェルディには現存で確認されているピアノ曲が「2曲」あります。
特にワルツはもはやピアノ曲ではないですね。笑
最後に
いかがでしたでしょうか。ヴェルディはオペラとともに人生を歩んできただけあって、説明の中にいくつも作品名がでてきました。
今回記事を書くにあたってヴェルディのことをよく調べたのですが、すごく羨ましい人生を歩んでいるなと思いました。
作品の多くが当時から評価が高く、お金もあって、奥さんと死ぬまで一緒、、、、。
羨ましいです。本当に笑