皆様、こんにちは。
今回は、民族音楽で有名なバルトークをご紹介いたします。
Bartók Béla
バルトーク・ベーラ(1881〜1945)は、ハンガリー出身の作曲家で、ピアニストや民族音楽研究家としても知られています。
父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽好きで、自身もピアノやチェロを楽しんでいたそうです。
その影響からか、言葉を喋りだす前からリズムを判別したり、4歳では自己流で40曲もピアノ曲を弾きこなしていたそうです。
10歳頃から習作を書き始め、ピアニストとしての舞台を踏むようになりました。
当時住んでいた場所のギムナジウムに通い、ブラームスに影響を受けた作曲活動をしていたバルトークは1898年ウィーン音楽院への入学を許可されますが、同国の作曲家ドホナーニの「ハンガリーの作曲家としての意識を持つべきだ」という勧めに従い、ブダペスト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学します。
1905年パリで行われたコンクールにピアノ、作曲両方の部門で出場し、結果を残すとともに、当時ハンガリーでは知られていなかったドビュッシーの音楽に触れます。
また同年には、民族音楽に長けている作曲家コダーイとも知り合います。
1907年、なんと26歳という若さで母校の王立音楽院のピアノ科教授に就任するとともに、民族音楽の研究に没頭します。
この頃から、ブラームスやドビュッシーらしさのある曲に、民族色が現れてきます。
ハンガリーの政治的な抑圧や第一次世界大戦の影響から、音楽家、研究家としての地位が上がるのと裏腹に不満も募っていきました。
1934年長く務めた教授職を降り、科学アカデミーの民族音楽研究員となりましたが、第二次世界大戦が勃発するとともにヨーロッパを離れる決心をします。
1940年単身アメリカに渡り、ピアニストや研究員として整形を立てていこうとしますが、なかなか他国に馴染めず、白血病のため45年に亡くなります。
「ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しない」と言っていたため、最初はアメリカに埋葬されましたが、ハンガリーの民主化が進み1988年にハンガリーに移送し埋葬されました。
ここで有名曲をご紹介いたします。
「ルーマニア民族舞曲」
「管弦楽のための協奏曲」
「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」
「中国の不思議な役人」
バルトークとピアノの関係性
彼の音楽家としての原点は、ピアノにあります。
身長は165cmと小柄でしたが、恵まれた手の大きさだったそうです。
彼はリストの弟子にピアノを師事し、さらに自分がピアノ科の教授に就任し、ハンガリーのピアニストの流れを今につなげた人物でもあります。
「やさしい10のエチュード」「子供のために」などといった、基礎的で取り組みやすい曲もあれば、「ミクロコスモス」や「ピアノソナタ」「ピアノ協奏曲」など難易度の高いものまで存在しており、様々なところから好かれる作曲家です。
バルトーク本人の演奏録音も多数残っています。
ヴァイオリニスト シゲティ、ジャズクラリネッティスト ベニー・グッドマンとバルトークの演奏
最後に
いかがでしたでしょうか。
最後に貼った動画は「コントラスツ」という曲なのですが、やってみたい曲のうちの一つです。
またバルトークの曲と数学も密接に関わっており、そういうところを知るのも面白いなと個人的に思います。
コチラの楽譜、バルトークの曲載っているのですが、なんと!!
プレゼント企画の対象楽譜となっております。
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是非ottoに遊びにきてくださいね!