坂本龍一編:【どこまで知ってる!?ピアニスト探求物語】

こんにちは。

ottoのめいです。

ジャンルにこだわらず色々なピアニストの事を勉強するシリーズ

【どこまで知ってる!?ピアニスト探求物語】


今回紹介する方は世界的な音楽家の坂本龍一さんです。

私も坂本龍一さんの音楽はとても好きで良く聞くのですが

あの天才的な思考はどう構築されたのか

どんな人物だったのかなど詳しく紹介していきます。

坂本龍一の生い立ち

1952年東京都中野区に生まれ、三才からピアノを始める

人生で最も影響を受けた人物はドビュッシーとバッハだと語っている

1970年東京芸術大学に入学後

民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、

その内容の深さに坂本はこれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような

大きな衝撃を受けたという。また電子音楽に出会ったのは大学在学中だそうです。

1975年スタジオミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。

1983年映画『戦場のメリークリスマス』の音楽担当と演者として出演し

英国アカデミー賞、作曲賞を日本人として初めて受賞した

同年「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」解散

YMO解散後ソロ活動に専念し数々の経歴を残す。

2006年エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立

など書ききれないほどの経歴の持ち主です。

イエロー・マジック・オーケストラとの出会い

YMO メンバー

坂本龍一

細野晴臣

高橋幸宏の三名である

YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の

「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするという

ユニットを構想していた。だがこれは実現せず

(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)

続いて細野は林と佐藤博ユニットでマーティン・デニーの

「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、

これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。

細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した

これが坂本の人生観を大きく変えた「イエロー・マジック・オーケストラ」との出会いになります。

また坂本龍一は1970年代、まだ一般的では無かった電子楽器シンセサイザーの

可能性にいち早く注目してレコーディングやライブの演奏に取り入れ

その革新的な音楽は国内だけでなく海外からも高く評価されました。

坂本龍一の社会についての言及

坂本龍一は平和や脱原発

環境保護や復興支援など社会的な分野で積極的に行動し、

自身の意見を社会に発信してきました

加速する気候変動への行動を起こすため2007年には

坂本さん自身が代表理事を務める

一般社団法人「more trees(モア・トゥリーズ)」を設立し、

全国の自治体と協定を結んで植林など、森林を保全する活動も展開してきました。

他にも数々のミュージシャンとともに「脱原発」をテーマにした

音楽フェスティバルも開いてきました。

音楽フェスティバルを企画した思いについて、

2012年の会見の際

「なるべくたくさんの人に来ていただいて、この問題にまず関心をもってもらいたいし、ひとりひとりがよく考えてもらいたいという思いです」

と話していました。

坂本龍一が残した言葉

平和について

人間が音楽を楽しむためにはどうしても音楽が必要なのだ

戦場で敵同士撃ち合っている時ふと聞こえてきた歌やメロディーに

銃を下すとゆう音楽がまだあり得るんじゃないか。

社会について

声を上げる。上げ続ける。あきらめないで、がっかりしないで、根気よく

社会を変えるには結局、それしかないのだと思います。

坂本龍一が好んだ言葉

芸術は長く人生は短い

坂本龍一さんは音楽性以外にも人間性にも誇るべき点はたくさんあるなと

感じました。

私ももっと色んなジャンルの音楽について知りたいと思いました。

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