THE GREAT COMPOSERS-偉大なる作曲家-第18弾  ドヴォルザーク

皆様、こんにちは。

今回は日本でもよく知られる「新世界」を作曲した、ドヴォルザークをご紹介いたします。

Antonín Dvořák

アントニン・ドヴォルザーク(1841〜1904)は、後期ロマン派に属する作曲家でチェコ国民楽派を代表する一人です。

ネラホゼヴェスという村に生まれたドヴォルザークは、小学校の校長の手ほどきでヴァイオリンを、ズロニツェという町のカントル(キリスト教の音楽指導者)にヴィオラ、オルガン、和声法などを学びました。

もとは父親は肉屋を継がせるきでいましたが、周りの反対や援助からプラハのオルガン学校に通うことになります。

2年間音楽学校に通った彼は、学校を成績2番で卒業し、そのまま楽団にヴィオラ奏者として入団しました。

演奏活動とともに作曲活動も行っており、コンクールに応募するための作品(後に発見される交響曲第1番)やワーグナーの影響が強く現れるオペラ「アルフレート」などを書いています。

作曲に力を入れるため所属していた楽団をやめ、最初に書いた讃歌「白山の後継者たち」で成功、以前音楽教師をしていた姉妹の妹と結婚、更にはプラハの協会のオルガニストに就任するなど、音楽家としての道を歩んでいくことになりました。

1874年オーストリアの国家奨学金審査に合格し、当時の彼の年収の2倍以上の奨学金を受け取りました。

そこから5年間毎年奨学金審査に合格するのですが、1877年の審査員だったブラームスがその時の提出作品の「モラヴィア二重唱曲集」を大絶賛し、そこから親しい交際が始まりました。

その後は、「スラブ舞曲集」「ヴァイオリン協奏曲」、交響曲等を続々と書きつづけ、ドイツ、イギリス、ロシアなど各地で初演するようになりました。

またその間には、チャイコフスキーとも親交を深めました。

1891年、ニューヨーク・ナショナル音楽院の院長就任の依頼が来たことから、アメリカに渡り、後進の指導かつ自身の作曲にも力を入れました。

「交響曲第9番 新世界」、「弦楽四重奏曲第12番 アメリカ」「チェロ協奏曲」などの有名作品はまさにこのときに書かれた曲です。

ですが2年後にアメリカ全土が恐慌の影響を受けたことで、チェコに戻ることを決めました。

帰ってからも精力的に作曲を続けましたが、1904年に脳出血により63歳で亡くなりました。

有名曲をご紹介いたします。

「交響曲第9番 新世界より」

「チェロ協奏曲」

「弦楽四重奏曲第12番 アメリカ」

ドヴォルザークとピアノの関係性

ドヴォルザークピアノ作品は、大きく取り上げられることは少ないのであまり知られてませんが、上でも記した「スラブ舞曲集」はピアノ連弾のための作品です。今ではオーケストラ編曲版で演奏されることも多いです。

親交が深かったブラームスの「ハンガリー舞曲集」に影響をうけて、当時ドヴォルザークの曲の多くを出版していたジムロック社からの依頼で、作曲されたのがこの曲です。

他の作曲家の、ピアノのための舞曲作品のなかでも、質が高く受け入れられやすい作品です。

他にも、今ではヴァイオリンでよく演奏される「ユーモレスク」も、もとはピアノ独奏の作品でした。

「スラブ舞曲集 Op.46、Op.72」

「ユーモレスク Op.101」(7曲目が有名な曲です)

最後に

いかがでしたでしょうか。

スラブ舞曲は、高校でも大学でもオーケストラで演奏した思い出深い曲です。

ドヴォルザークはどの曲をとっても民族色が強く耳によく残るので、好きな作品も多いです。

そして、本日紹介した「ユーモレスク」の楽譜もお店にございますので、是非是非遊びに来てください。