ウラジミール・ホロヴィッツ:【どこまで知ってる!?ピアニスト探求物語】

こんにちは。

ottoのめいです。

ジャンルにこだわらず色々なピアニストの事を勉強するシリーズ。

【どこまで知ってる!?ピアニスト探求物語】


今回紹介する方はピアニストのウラジミール・ホロヴィッツさん

この天才的ピアニストはどのような人物であるのか、

どんな幼少期だったのかなど詳しく紹介していきます。

ウラジミール・ホロヴィッツの生い立ち

ホロヴィッツは1903年10月1日にキエフで生まれた。

ホロヴィッツが隣のジトーミル州の小都市ベルディーチウで生まれたとする根拠のない主張が存在するが、出生証明書はキエフがホロヴィッツの出生地であることを明白に示している。

1903年生まれであるが、軍隊で彼の手が傷つくことを恐れたユダヤ系の父は、

徴兵から逃れられるように生まれ年を1年遅い1904年として申告した。そのため、

1904年を生まれ年とする文献が散在するが、権威筋は1903年が彼の正しい生まれ年であるとしている。

幼少の頃よりアマチュアピアニストであった母から手ほどきを受け、

1912年にキエフ音楽院に入学し、1919年に卒業。

卒業時にはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏している。

翌1920年には、初のピアノ リサイタルを開催、ソ連において国内ツアーを開始し、

しばしばヴァイオリニストのナタン・ミルシテインとも共演した。

1926年には初の国外コンサートをベルリンで開催、このとき舞台名をロシア語名のGorovitzから西欧風のHorowitzに改めた。続いて、パリ、ロンドンで演奏を行った。

アメリカデビューは1928年。

同じくアメリカデビューを飾ることになっていたトーマス・ビーチャムの指揮で

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏した。

テンポの件で指揮者と意見が異なったまま演奏会が始まったが、聴衆の反応から第1楽章の途中で

「このまま指揮者に従っていてはこの演奏会は失敗してしまう」と判断したホロヴィッツは

次第にテンポを上げ、オーケストラをリードし始めた。

最終楽章でのコーダは圧倒的な加速で弾ききり、同曲の演奏を終了した。

演奏後割れんばかりの喝采を浴び、翌日の新聞では奇跡的なピアニストの登場が大々的に報じられた。

同年、アメリカでRCAと契約しレコーディングを開始した。

世界恐慌の影響でRCAは企業成績が悪化し、

契約下のアーティストのヨーロッパレコーディングをHMVに許可したため、

最初期の録音の多くは現在EMIが保管している。

リストのロ短調ソナタ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番など、

当時としては非常に珍しいレパートリーを録音しており、

音質の限界はあるが、今なおこれらの曲の最高の演奏と評価する声も多い。

1932年、アルトゥーロ・トスカニーニとベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番

『皇帝』で初共演を果たした。後に、トスカニーニの娘ワンダと結婚している。

1940年、米国に居を構え、1944年には市民権を獲得した。

ウラジミール・ホロヴィッツの受賞歴

グラミー賞

最優秀クラシック・アルバム賞6回

最優秀クラシック・器楽部門賞14回

最優秀クラシック・器楽部門賞2回

最優秀クラシック・器楽部門賞3回

ライフ・タイム・アチーブメント賞

レジオンドヌール勲章 フランス政府より 1985年

殊勲十字章 ドイツ政府より 1986年大統領自由勲章 アメリカ政府より

アメリカ国民芸術勲章 アメリカ政府より

ウラジミール・ホロヴィッツの人柄

1933年、ホロヴィッツは、アルトゥーロ・トスカニーニの娘、

ワンダ・トスカニーニと民事婚を挙げた。ホロヴィッツはユダヤ教徒、

ワンダはカトリックだったものの、

両人ともに厳格な信徒ではなかったので宗教は問題にならなかった。

上述の通り、ワンダはロシア語を話せず、

またホロヴィッツもイタリア語をほとんど話せなかったので、

彼らはフランス語で会話した。ホロヴィッツと妻ワンダは仲睦まじく、

彼女はホロヴィッツが自身の演奏に対する批判を受け入れる数少ない人間であった。

また、ワンダはホロヴィッツが重いうつ病に苛まれて外出しなかった時期にも彼に寄り添いつづけた。ホロヴィッツとワンダは、一人娘、ソニア・トスカニーニ・ホロヴィッツを授かっている。

1957年、ソニアはバイク事故で重症を負ったものの、即死は免れた。

1975年、ソニアは数ヶ月過ごしていたジュネーブで亡くなった。

薬物の過剰摂取が直接の死因であったが、

偶然によるものなのか自殺によるものだったかは明らかではない。

ウラジミール・ホロヴィッツの演奏方法

指を伸ばして演奏するホロヴィッツのスタイルは彼独特といわれる

程多彩な音色を生み出すのに不可欠であり、

これに加えて腕全体の使い方や体重のかけ方などを研究すると、

他人には決して真似することができない奏法であるとはいえ

ピアノを鳴らしきる目的に叶った奏法であることがうかがい知れる。

また、打鍵が独特であるために、不必要にペダルを使用することなく音を明確に分けて響かせることができ、最弱音から最強音まで、無限に近いデュナーミクの幅を持たせつつ、決して和音が濁ることのない演奏が可能であった。

このような奏法により、粒立ちの揃った早いパッセージでの透明感や、

圧倒的なスケールの轟音がもたらす緊張感などが生み出された。

スカルラッティやショパン、シューマン、ラフマニノフ、スクリャービンらの作品の演奏は、

一方では「ホロヴィッツの演奏は作品そのものではなくホロヴィッツを聴く演奏である」

などと揶揄されることもあるが、やはり他には得がたい魅力を秘めており、

高い評価に値する説得力がある。

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